思想と運動、組織と人間の問題を鋭く提起

松江澄『ヒロシマの原点へー自分史としての戦後五〇年』

評者 京都 山本徳二

労働運動研究199510 No.312

 

  ことしの八・五、八・六の広島を久しぶりにたずねた。五〇年という節目であるせいか、各地からの人出で、広島はざわついていた。

 とくに、中国の核実験、フランスの核実験の噂で、原爆禁止・反核運動は、いきおいを加速させ、いまや、全人類的性格を帯びた運動として、国際的な広がりをみせている。この巨大な波のうねりに背を向けた大国の論理は、いかにもわびしくみすぼらしいものという印象を与えている。

 原爆反対の原点ともなる広島で、運動の原点をつくり出したともいえる有力な一人、松江 澄が「自分史」を出版された。

ここ数年来「『私の昭和史』のようなものを書いておきたいと思いつづけてきた」ものを仕上げた労作である。

 

天皇も人間じゃないか

目次にそってかけあしでふれてみよう。

現在史の幕が切っておとされたロシア革命から三年目の一九一九年(大正八年)に、広島で生をうけた松江澄(以下私はでのべる〉は、「貧乏さむらいの子」で「寡黙で小心ではあるが律儀一徹」それでいて「寛容な」父、長兄が物心がつくと自ら東京に出て裁縫学校に学び、自宅で若い娘たちに和裁を教え、家計をたすけた気丈な母との間で、きびしくはあっても心豊かに育まれていった。もう一人、嘉永二年生れの祖母がいた。

「母にしかられるといつでもかばってくれたし、いっしょに出ると帰りにはきっとおぶってくれた。だが家が見えはじめると……私をおろし、何くわぬ顔で二人で玄関を開ける」「昔話をしてくれたのはこの祖母であった」祖母の背中をとおして感じたあたたかさを私はいつまでも忘れない。

大正七年、死者十五万とも十六万ともいわれているスペイン風邪というインフルエンザが猛威をふるった。カチューシャで名高い島村抱月もこの風邪がもとで急逝する。発病後わずか数日で。偉い医学博士が二人もついていてもダメだったと貧乏人は、病魔から逃れるすくいを、民間信仰に求める。松井須磨子のあと追い自殺とともに大正期の有名な話である。米騒動はあまりにも有名である。

大正十五年、広島県立師範学校付属小学校に入学、ついで、広島高等師範学校付属中学校に入学。兄も同じコースをたどっている。

小学校六年生の時のこと、級長の私は、先生の指導をうけながら、余り成績の良くない同級生に放課後、教室で補修授業をやられる。この同級生たちは、通学途上の用心棒の役割を買って出てくれる。また、大人の世界のことを教えてくれる。学校からの帰路に、遊廓の前を歩き、きれいな女性の写真が飾ってあるのを指さして「家の人にきいてみろ」という。たずねた母は、びっくりしたような顔で、何も教えず、二度と行くなときびしく言い渡す。

また、ある日、人通りの少ない町にきて、「天皇はどうして子供をつくったか知っているか」と問いかける。悪童たちの試しである。「現人神」という「神話」への挑戦である。[瞬考えたうえで「天皇も人間じゃないか」と答えた。「人間だから」ということばにこめられた「神」という虚構への抵抗は、その後も私のうちにひそんで動かなかった。

昭和初期、二九年恐慌の痛手からの脱出をはかる支配階級は、対外侵略を本格的に進め、満州に手を染めていく。国内では治安対策を強化する。代表的なものは、張作罧の乗った列車爆破事件であり、共産党の大検挙である。

「私は子供心に推理した。朝鮮人も、部落の人も、日本共産党も、中国人も、従って張作森も、みなそれぞれに違うのに、ある]点で共通のものがあるということだった。その共通な一点とは、日本一えらい人である天皇に敵対する人々であるということであった。しかし私は、それを口にすることはこわかったので、自分の胸におさめておくことにした」

中学四年、軍人の学校志望の学友がふえるなかで、何としても一高へと志を固める。

兄と同じように医者にしようという母の強い希望で、広島高等学校の理乙を強引に受けさせられた。いやいやだから見事に落ち、母にあきらめさせ、文科、一高を認めさせた。一年浪人ののち一高入学。

「愛も真理も木の葉のように吹き散らすファシズムの嵐とは絶縁した別世界」の一高生活を満喫する。青春をかけて人生を勉強する所だった一高を卒業。東大法学部政治学科を受験。また落ち、第二回目の浪人となり翌年入学。二十三歳である。

六月。ミッドゥェイ海戦で連合艦隊の敗北。日米の軍事力の差はひらくばかり。十一月には、スターリングラードでのソ連軍の大反攻。洋の東西で、日独の敗北をつげる鐘が鳴り出した。翌、昭和十八年十月、ついに在学徴集延期臨時特例公布で学徒動員となる。「少々やせていようが、病歴があっても消耗品としての兵士」の必要な軍隊は、十一月に下関重砲兵連隊に入隊せよといってくる。

「軍隊に入ったら馬鹿になれ。考えるな。要らぬことは言うな」と父は懇々と諭し戒め、

母はおろおろと気づかうばかり。

 

 

四〇年前の「借金」を返す

学生服を軍服に着替え、二等兵の新兵生活が始まる。十日も経たぬ間に、満州へ。ソ連との国境間近の牡丹江重砲兵連隊に入る。

「初年兵にとって、人間による「真空地帯一として内務班生活のきびしさと合わせて、自然のきびしさ・:…つき刺すような寒痛は遠慮なく初年兵の皮膚をおそい、油断すれば凍傷となって指や鼻を失うことになるのだ」

五ヵ月のち、見習士官教育のため内地の教育隊に派遣となる。眼前に広がる富士山、静岡県富士岡村にある教育隊の八ヵ月の生活の仕上の卒業試験のなか、トーチカ爆撃の実弾演習で成績をあげ、恩賜賞をもらうことになった。

「一高以来さめた目で批判的に見ていた天皇から物をもらうことには抵抗があった。だからといってことわるだけの勇気もなかった」恩賜の「文鏡」は戦後いつまでものどにささったトゲのように私を刺した。

「七、八年前、私にとって最後の県会が開かれる前に県会事務局長がきて、藍綬褒章がおりることとなったがと問い確かめた。私は、天皇からもらうものは何もないとことわった。……このとき私は四〇年前の借金を返したような気になった」

「文鎮」のおかげか、教育隊付教官として学校に残ることとなった。

八月十五日、「天皇放送」をきいた日、「無慈悲で無茶な戦争に賛成でもなく反対でもなく、ともかく命をながらえ解放された。……お前は生を得るために何を失ったのか。学友や戦友は死を得るためにどれほど多くのものを失ったか」私にとって生涯の課題となった。「まず急ぐことは広島を確かめることだった」

原爆をうけた広島出身ということで、五日目の八月二十日復員できることとなった。

廃嘘の広島に立って

二六歳の復員兵士の目にとびこんできた広島は、のっべらぼうの瓦礫の原だった。

荒野に立って「ふたたびこのような無残な虐殺と殺戮をくり返さないために、私は一生をかけて戦争と原爆に立ち向かうことを心に誓った。それは私の義務であり、それは死んだ人々へのささやかな供養なのだ」

この決意から戦後が始まる。人間として到達した理性の判断をゴマ化しなく生きようとする松江澄の苦闘が始まるのである。

マルクス主義への接近は急速だった。マルクス主義の書物やかつての発禁本を財布をはたいて買った。米にかわるべき兄の医学書の何冊かも書物となった。入党は時間の問題であった。

「日共に入党するまではあらゆるものにたいして批判的で、けっしてのめりこむことのなかった私が、戦争中の反省と転回によって入党して以来、私は私を捨てて党に没頭した。それは私の転生でもあったはずであった」

しかしそれは長くつづかなかった。神のごとき存在だった党を、客観的な考察の対象として見るきっかけは「五〇年分裂」であった。

「戦前の胃春時代に私の精神生活の地中から生えてきたたけのこのような『自立一であり、すべてを疑う.「自由」」が頭をもたげてきた。

「最大のものは虚構の論理11倫理としての「一枚岩』の団結であった」そしていま、「日本的集団主義」とかくれた中心の「天皇」の問題にとりくんでいる。これが、戦前と戦後のけじめをあいまいにしたものではなかったか。

思想と運動、組織と人間の問題を鋭く提起する愉快な本である。

〔社会評論社刊、定価二六七八円、本誌取扱い〕
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